藜(あかざ)稲荷神社の由来
寛延年間(1748−1751) 1749年国替えにより播磨(はりま)国姫路藩より越前松平朝矩(とものり)が15万石をもって上野前橋藩へ入封。 その際、伏見稲荷大神分霊を勧請して分領としていた武州(埼玉)川越の赤沢の地に奉斎した。
因みに当社は結城秀康の後裔(こうえい)である越前松平家姫路城主として減石移封の際、京都伏見稲荷神社に「おちぶれて裾に涙のかかる時、人の心の奥ぞしらるる」と献詠(けんえい)して只官(ただひたすら)一門の栄達を祈願した後、朝矩(とものり)が15万石を領し前橋城主となったことにより、神恩に感謝して川越赤沢の地に奉斎、このころから「出世稲荷」と称し尊信厚く崇められた。
元禄12年(1699年)見舞われた風水害以来、利根川の浸食によって前橋城が半壊。またこの災害により酒井氏の時代より藩財政は困窮していた。
明和4年(1767年)前橋城は本丸まで浸食されるに至った。財政難により城の修築もままならず、武蔵国川越藩主秋元氏が転封となり空城となった川越城に居城を移した。前橋藩は一時、廃藩となった。
その後、松平朝矩(とものり)から数えて川越藩主4代目で名君として知られる松平斉典(なりつね)時代、天保の大飢饉の時期でもあり、領民と人心の立て直しや様々な財政復興の政策を打つ中一定の成果を上げ、天保2年(1832年)に現在の稲荷御神体(荼吉尼天・だきにてん)の造像を、当時川越境町を中心に活躍した在地仏師、久下(くげ)新八に依頼、稲荷神社再建もまたその一つであったと思われる。
また斉典(なりつね)は、現在に残る川越城本丸御殿を、嘉永元年(1848年)に建設した藩主としても知られる。
稲荷神社再建後、斉典(なりつね)は、天保6年(1835年)に従四位上少将に昇格、また政治的事情から、15万石から17万石に加増を受けたことなどから、「出世稲荷」としてさらに崇敬(すいけい)を集める。
その後、長く廃城の状態が続いたが、幕末の文久3年(1863年)になって時の第7代藩主・松平直克(なおかつ)は念願の前橋城帰城が許され、長らく陣屋となっていた前橋城は慶応3年(1867年)に修築がなったので再び前橋藩に移った。その際、この稲荷も城内に奉還、地名の赤沢を転訛して藜(あかざ)稲荷と称し奉還された。
しかしその後明治維新に及び前橋城壊城に伴い、信仰篤き旧藩士の人たちにより現在の文京町一丁目39番5号(旧高田町)の梅津家分地(後に稲荷神社に奉納)に奉還された。昭和27年宗教法人稲荷神社として認証されたが、昭和30年半ばごろから御神体の所在が不明となり、それに伴い社殿も損壊。近年御神体が旧氏子宅より発見され、劣化破損が酷い為平成19年10月より平成20年10月まで、文化財保存修復家・藤田尚樹氏に完全修復を依頼完了、現在に至る。
現在2019年10月15日に,川越・赤沢の地に奉斎以来 「270年記念祭」となる。現在氏子有志と支援者により、文京町一丁目39番5号に社殿再建を計画し、御寄付を募っているが、まだおもうように寄付が集まっていないのが現状であり、再建には厳しい状況である。
藜稲荷神社御神体は(荼吉尼天・だきにてん)
別名、白晨狐王菩薩(びゃくしんこおうぼさつ)
仏教の神。 「荼吉尼」は梵語のダーキニー(英字:Dakini)を音訳したものである。元はインドの女神であった。元々は農業神であったが、後に人肉、もしくは生きた人間の心臓を食らう夜叉神とされるようになった。この神が仏教に取り入れられ、大日如来が化身した大黒天によって調伏されて、死者の心臓であれば食べることを許可されたとされた。
日本に入ると、狐神信仰と結び付けられ、狐を眷族とする稲荷神として信仰の対象になった。稲荷は、恵比須の化身であり、恵比須・稲荷の化身・神使は狐である。過去において、この「化身・神使は狐」という共通点から、稲荷=荼枳尼天の方程式が成り立ったとされる。 荼吉尼天は、一般的に、左手に如意宝珠または火焔宝珠を載せ、右手に剣をもち、白狐にまたがって空中を疾駆している天女の姿をする。自由自在の通力を有し、六月前に人の死を知り、その人の心臓をとってこれを食べるといわれる。
一般的に「荼吉尼天」は豊川稲荷の御神体として祀られ、その豊川稲荷開基の今川義元から、織田信長や豊臣秀吉、九鬼嘉隆、徳川家康などからの帰依を受けたとされ、江戸時代になると、越前大岡忠相や渡辺崋山からの信仰を受けたという。
豊川稲荷は円福山 豊川閣 妙厳寺にあり曹洞宗の寺院であり、稲荷神社にはこの「荼吉尼天」が鎮守堂に祀られている。
この御神体が築造られた頃、越前大岡忠相が参拝所を設けるなどして、庶民にも信仰が広まったことから、徳川御家門の一つである越前松平家も、それにならい、川越藩主4代目松平斉典が徳川家に伝わる「荼吉尼天信仰」を鑑み、元来伏見稲荷より勧請された「藜稲荷」ではあったが、伏見稲荷神社に祀られる稲荷神と荼吉尼天が習合した御神体として、「荼吉尼天稲荷神」を造像、あらためて御神体としたと考えられている。
また、かつて伏見稲荷大社の神宮寺としてあった、本願別当愛染寺がきつねをお使いとする「荼吉尼天(だきにてん)」 を祀っていたこともその理由であったかもしれません。
宗教法人稲荷神社
■所在地:371-0801 群馬県前橋市文京町1-39-5
■管理者・代表役員:宮澤克典(前橋八幡宮宮司)
■連絡先:群馬県前橋市本町2-9-21 TEL027-221-8632
■再建寄付受付連絡所:前橋市文京町1-47-1( ?すいらん)
氏子総代梅津宏規(うめづこうき)迄
TEL027-223-6311 E-mail. akazainari@yahoo.co.jp
交通:JR両毛線前橋駅南口より徒歩10分、前橋けやきウォークの北東に位置します。
ご質問、ご寄付また新氏子の受付は上記までお願い致します。
また再建に向けたご寄付は下記までお願いいたします。
詳細につきましてはお手数ですが、ご連絡下さい。
【ご寄付受付口座】
群馬銀行 前橋東支店 普通 0853703
宗教法人稲荷神社 代表役員 宮澤克典
又は
前橋南町郵便局 00130−7−601549
稲荷神社
宮司 宮澤克典
日頃 神社運営につきましては皆様のご尽力に対し厚く御礼申し上げます。 平成二十五年三月より、先代・代田典義宮司に代わり、稲荷神社の宮司となりました、前橋八幡宮の宮澤でございます。
今回、梅津氏を中心に藜稲荷神社の奉賛会を立ち上げるにあたりまして一言ご挨拶を申し上げます。
戦後、宗教法人法ができました昭和二十八年、藜稲荷神社の氏子の先人達が宗教法人稲荷神社として運営を始めて以来、十月十五日の例祭、四季折々の祭を続けて参りましたが、近年本社自体も損傷がひどく、以前の総代さんも高齢化が進み、神社を知らない人は公園と見間違う人も増えてきたと聞き及んでおりました。地元文京町一丁目の人々も現状を憂え、御本社の再興をと寄付活動を起こしたのも数回と伺っております。
またオウム事件以降、宗教法人行政も変化して参りまして新たな法人を建てる事は難しくなり、崇拝する建物、土地、氏子がいても新規の法人化は仲々許可されないという事を艦みましても昭和二十八年当時の総代さん達の先見の明と苦労がしのばれ、また有難い気持ちで一杯です。もし当時宗教法人化されていなければ、今回の再建の話も夢物語かもしれません。
平成十七年 徳川時代以降守り続けてきた御神像が発見され、梅津氏が私費を投じ修復されてから前橋にけやきウォークが出来、文京町の変貌は始まりました。前橋の歴史は戦国時代迄は文京町、天川原が前橋の一大中心地であり、 武田、上杉の戦いでこの地は荒れ、中心地が県庁西に移ってきましたが、いまや便利さにおいては文京町が一番であり、中心地が戻ってきたといえましょう。私たちの知らない処で、藜稲荷神社の恩恵に預かっていたと思います。
これから藜稲荷神社の御造営にあたり、奉賛会に御入会頂きますと共に、御造営資金の協賛を頂ければ幸甚にございます。江戸時代以降 藜稲荷神社様を守って頂いた文京町一丁目の皆様を始め「出世稲荷」の御神徳を崇敬される方も地域に関わらず御入会、御協賛いただきますようお願い申し上げます。
敬具
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藜稲荷・御神像修復までのプロセス
藜稲荷神社の前橋藩旧藩士であり元氏子総代宅より発見された「御神像」は、その損傷があまりにも激しかったため、それをどうすべきかを専門的な見地より判断するために、幾多の文化財保存修復を手掛けてきた、修復家・藤田尚樹氏に依頼。 御神像の裏に書かれていた墨書も含め、確かな経歴であることが確認され、本格的な修復を依頼することになった。
− 初期診断 −
■面部■
両手の割損、白狐の耳の欠損が見られる。その他、全体的に鼠咬被害が。岩座正面の板材が前後に入れ替わっている。 また、輪光背の欠損、白狐の尾の先端部が欠損、耳の欠損、鼻先と後ろ足の膝に割損が見られる。 彩色の剥落、剥落によって露出した生地の痛みが認められる。
■厨子■
厨子基底部が亡失している。厨子表面の黒色系の塗装が剥がれ、木地が露出している。
屋根の縁回りが、経年により摩耗しており、背面上部に細かい鍵傷は横一線に認められ、扉の開閉による摩耗被害がある。
■厨子付属帳■
経年による生糸の劣化で、ぼろぼろになっており、元は朱染めの花、草紋が刺繍されていたものであろう。
本像は、上半身に大袖の長袂衣を着け、その上にカイトウ衣を重ね帯を結び、背子を纏い裙を着す。沓を履き、左足をやや下方に垂らす遊戯形で白狐の上に坐す。頭髪は左右に振り分け、両耳を覆い隠すように垂れ、頭頂に花形の髺を結い、天冠台全面には三角形の宝冠(欠損)を載いている。左手は前方に屈臂し、掌を上にして宝珠を乗せる。右手も前方に屈臂し、宝剣を執る。
白狐は、頭部は左に首を降りミカエル姿勢をとり、胴体を本尊に平行にして四肢を曲げて坐し、尾を上方に伸ばす。岩座は、正面と両側面に岩を配す。背面省略。光背は、柄を残し亡失。残る形から輪光背を配す。
厨子は、方形の観音開き。全面漆塗り。正面両扉に三つ巴の家紋を金箔で配する。内部は総金箔貼り。
− 品質構造 −
葉樹(桧か)。胡粉下地。彩色。 本躰は、膝前から白狐の頭部と体側(左四肢)から先を別材で矧ぐ。尾は別材。 岩座の基礎部(方形型)は、広葉樹(タモかセンか?)を使用。岩座は流木を使用する。
− 損傷状況 −
汚れが著しく彩色も色あせ、部分的に剥落しているが、後補彩色。 面部の殆どを鼠咬による亡失している。左手首から先と右手の一部を欠損している。白狐の両耳は欠損し、尾は鼠咬による痛みが目立つ。
光背は柄と輪光背の一部を残し失われている。岩座は岩形の部材が三個亡失しているが、残りの岩形の部材は、焼損による被害がひどく、使用に耐えられる状態ではなかった。台座天板部の裏側に墨署名あり。(仏師・久下新八により天保三年三月に新像完成したことが分かる)
白狐と岩座の間から現代の接着剤がはみでている。岩座の部材も全面材と背面材が入れ替わっており近年、修理の手が入っていた様子を窺わせる。岩座下の黒色の方形座も後補。
厨子は、全体に部材が緩み、構造的に郷土が低下している。基底部(框、飾り框など)を亡失している。
− 修理修復方針 −
本像は彫刻面のダメージが大きく、特に鼠咬による面部の亡失は痛々しい。今後、再び祀られることを鑑みて、面部の復元作業は勿論のこと、その他の復元作業も必要とし、復元を行うこととした。
厨子は、全解体した後、各材の補強を行う。本堅地漆塗りとし内部には、金箔を施した。亡失した基底部の復元作業を行った。形状は、本躰が簡素な矩形形であることから、無装飾の2重框を補う。
厨子内の基壇部(本像が納まる台座)は、多重装飾基壇とした。
*厨子内基壇部について
多重装飾基壇とは、各段に様々な文様を刻み、最下部には、四隅を如意形に表し全面に雲形の厚肉彫を施す。
厨子付属の帳は、新規に制作補った。
仏師:久下新八(くげ しんぱち)
文化・文政期に川越境町を中心に活躍した在地仏師の一人。生没年は不明。
主な制作
文化十五年(1818年)の西貝塚公民館薬師如来像
文政二年(1819年) 平方領家馬頭観音堂聖観音像
文政七年(1824年)平方領家浅真寺月江正文和尚像
文政九年(1826年)地蔵菩薩
藤田尚樹(ふじたなおき) 修復担当:文化財保存修理修復家
1966年 東京都生まれ
1993年 東京造形大学美術二類卒業
1995年 東京藝術大学大学院保存技術講座卒業
1999年 同大学大学院博士課程満期修了
1999〜'01 同大学非常勤講師
栃木・能仁寺/釈迦三尊像(県重文)
日光・輪王寺/天海僧正(県重文)
栃木・益子西明寺/十一面千手観音像、如意輪観音像(県重文)ほか
栃木・佐野厄除大師/本堂彫刻
群馬県重文追薬師立像、栃木県重文専修寺阿弥陀如来立像の解躰
および台座、光背の復元制作に当たっている。
また仏像制作及び修復に不可欠の漆工技術の専門家である
宗教法人藜稲荷神社
〒371-0801群馬県前橋市文京町1-39-5 担当宮司:宮澤克典(前橋八幡宮・宮司) TEL.027-221-8632
氏子総代: 梅津宏規 宮本秀夫 TEL.027-223-6311(株式会社すいらん代表)
※新氏子も受け付けております。お問い合わせ下さい。akazainari@yahoo.co.jp